2回目の甲子園出場は1965年(昭和40年)の第47回大会でした。前回の第45回大会は記念大会で一県一校の出場でしたが、今回は千葉県と茨城県の2県で1校の「東関東大会」で勝ち抜いての出場です。当時の千葉県は66校で茨城県は確か50校位で、厳しい狭き門は変わらずでした。我が銚子商業の最大のライバルは近年力を付けて来た習志野高校です。春季大会では準決勝で0対1で苦杯をなめていて、それも、4番打者の谷沢健一君にホームランを打たれての敗戦は、私の高校野球で唯一打たれたホームランで、そのショックは大きいものが有りました。習志野高校を越えなければ甲子園出場はなく、千葉県代表決定戦たで必ず対戦する相手なのは間違いない。
1年生で甲子園出場を果たしたものの、その後、出場のチャンスを生かせないままに、最後の3年生の夏の大会。4番でエースとなると、地元市民の私に掛かるプレッシャーと期待。チームの柱としての責任を全身に感じながら、走り込み、投げ込みの猛練習を課した毎日で、如何に自分に厳しくなれるか。「打倒!習志野。打倒!谷沢」振り返ると甲子園出場を胸に生涯で1番練習したのがこの頃でした。
そして、その時がやって来ました。千葉県代表決定戦は予想通りライバルの習志野高校です。世間では“事実上の決勝戦”とまで言われていて、我々もその思いで今迄厳しい練習を重ねてきたのです。それは、習志野高校も同じ思いだったはずです。当時の千葉県営野球場は超満員で膨れ上がっていても、私の心は不思議なほど平静であったのは、“やるだけの事はやった!”の思いが有ったからでしょうか。試合の結果は5対0と予想以上に点差が付き、全力で臨んだ谷沢君との対戦は4打数0安打に抑えての勝利でした。さすがに、試合終了後は勝利の喜びより全精力を使い果たした疲労で座り込むほどでした。
数日後には「東関東大会」が待っている。これからが本当の闘いなのです。茨城県代表は日立一高と土浦三高と決まりました。現在のように相手チームや選手の情報もない時代です。どんな戦いになったでしょうか。次回をお楽しみに。