甲子園大会の季節となり、出場校がほぼ出そろったようです。今年も熱い夏がやって来ました。今回は甲子園の話題を送りましょう。私にとって「甲子園」の思い出は出場回数2回の想い出と、ロッテで11年間のスカウト部長時代に甲子園大会視察で経験した事。そして、全国の多くの名将との交流など、本1冊になるほど多くの話題、エピソード等を持っていますので、今後、追々語って行こうと思いますのでお楽しみに。
「甲子園」それは野球少年にとって憧れであり、聖地であり、夢であり、私もその一人でした。私の少年時代の銚子の野球熱は今では考えられないほど高く、大人達に煽られるように子供達は野球に熱中したものでした。その頂点に有ったのが「銚子商業」だったのです。甲子園大会へはすでに昭和28年、32年、36年の春夏3度の出場を果たし、銚商の野球選手は眩しく、憧れの存在として、まるでスターのように目を輝かして見たものでした。
特に、私にとって母校となる銚子1中出身選手の活躍は身近に感じられて、勇気と刺激をもらったのです。“銚子1中出身の選手が多いと、銚商は強い”と言われていて、その選手を育てた監督は誰あろう、後に、銚商で春夏合わせて10度の甲子園出場させた名監督であり恩師の斎藤一之先生(以後監督)だったのです。
母校の明神小学校と銚子1中は土手を境に隣り合わせに建っていて、1中の厳しいスパルタ練習、斎藤監督の甲高い激しい咤激励の声は隣の我々の方まで聞こえて、其のたびに震えあがったものでした。中学で野球をやるとすれば当然1中で斎藤先生のあの指導を受けることになるのですから、“相当な覚悟”で入部しないとならないと、小学生ながら自分に言い聞かせたものでした。
現在は甲子園出場には各県1校の出場枠が有りますが、勝負は勝者と敗者がはっきりと表れ、誰もが勝者を目指して努力し頑張っても、甲子園大会出場は1校だけ。その1校になる為に全身全霊をかけて励んだのです。甲子園を語るには斎藤一之監督なしには語れません。
これから、少しづつ紐解いていきますのでお楽しみに!又、お会いしましょう!