私が生まれたのは昭和22年(1947年)の終戦の2年後で、利根川が太平洋に注ぐ河口でその名も川口町で生まれたのです。その時代は第一次ベビーブームで街には子供が溢れていました。銚子は利根川に沿って栄えた街で、東西に長い地形になっていて、その東端が川口町で場所柄船主や漁師、そして、水産加工業者が多く集まった地域です。これは、後に分かった事ですが、銚子の中でも最も「柄が悪く乱暴者が多い土地」だったそうで、想い出せば保育園に通っていた当時に、退園させられた原因も友達に乱暴したから、との事ですが、私にはそんな自覚すらなかったのです。これも、環境が悪い土地柄で育ったせいかも知れません。
当時の銚子の子供たちの遊びと言えば野球で、近所のみんなが野球をやっているので、物心ついたころには自然とボールを追っていて、近所の年上の子供の後を追っては邪魔にされながら、球拾いやバット引きなどをして野球に馴染んで行ったのです。野球をやらない子供はいなかった程です。又、野球をやらない時は海で魚釣りや港で泳いだりしていたものでした。
日本中の食糧事情は相当に悪い時期でしたが、銚子と言う立地条件もあり、又、我が家が水産加工業を営んで居た事も有って、魚だけはいつも豊富に食卓に並びました。と言うより、魚しかなかったと言った方が正しいでしょうか。網干場で野球をやり散々走り回って腹が空けば、皆で周りに干してある煮干しをつまんでは空腹を満たし、そして又野球をやりでした。そんな事情もあって、川口町周辺の子供達は他の地区の子供と比べて体は一回り大きかったと、これも後で分かった事でした。プロ野球に入って整形外科の先生に言われたことが有りました。“君はどこの出身か?”と尋ねられ“銚子です”と答えると、“君の骨は実に立派でしっかりしている。小さい頃から魚を食べたからだろう”そして、“君のお父さんの遺伝もある”と。銚子に生まれ幼少期に煮干しを頭ごと食べたお陰で、強い体にしてもらった「親と銚子」に感謝‼。次回、又、お会いしましょう。 6 銚子スポーツタウン 私と野球(その1)幼少期時代 木樽正明